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14.昭和時代の八街

印刷用ページを表示する更新日:2023年3月16日更新 <外部リンク>

昭和時代の八街 1(平成30年9月1日号)​

 太平洋戦争が開始される前の昭和16(1941)年3月、旧日本陸軍は「陸軍下志津飛行学校八街分教場」(通称:八街飛行場)を現在の八街市朝日区と富里市四区のおよそ335町歩(約3.35km2)に開設しました。この飛行場は、戦時における空中偵察や情報収集の教育・訓練を行う軍学校の一つでした。そして、この飛行場には時速600kmでの飛行を可能とする当時の最新鋭であった陸軍百式司令部偵察機を配備しました。
 開設初期は訓練活動を行っていましたが、太平洋戦争の戦局悪化により「下志津教導飛行師団」に改編され、当初の偵察訓練が偵察任務になり、その他にも首都圏の防衛任務が課せられました。戦争末期には、武装して米軍機との戦闘や対地攻撃及び艦船攻撃を行いました。この飛行場から飛び立った偵察機のほとんどは帰還することがなかったといわれています。
 終戦後、八街飛行場は閉鎖され、食糧増産のために農地として解放されることとなります。現在、かつての飛行場の面影はなくなっていますが、今も「飛行機格納庫のコンクリート基礎」や当時使用されていた「排水路」など当時の痕跡を見ることができます。その他にも、昭和60(1985)年5月、八街飛行場で従事していた旧陸軍関係者及び地元の協力者によって建立された「陸軍司令部偵察隊の碑」があります。
 これら戦争の痕跡を残す一連の軍事施設があった場所は、一般に「戦争(軍事)遺跡」と呼ばれています。​


 
ひこうじょう
八街飛行場(丸山房夫氏撮影)

 

昭和時代の八街 2(平成30年10月1日号)​

 西南戦争以降、日本はいくつもの戦争を経験してきました。数々の戦争を経る中で、八街からも多くの人々が応召され戦地へ赴きました。日本へ帰還した人々の一方で、戦地で亡くなった人々も多くいます。
 今年で終戦から73年という年月が過ぎましたが、今も戦争の記憶を残す忠魂碑や慰霊碑が八街市内にはいくつも残されています。
 実住小学校前の道を挟んだ敷地奥には、2基の「忠魂碑」と1基の「慰霊碑」が建てられています。この「忠魂碑」は、日露戦争後の大正2年と3年にそれぞれ建立され、一方の「慰霊碑」(戦没者642名列記)は、昭和32年に建立されました。
 その他にも、山田台烏森稲荷神社境内「慰霊碑」(昭和32年建立、戦没者34名列記)や、文違神社境内「大東亜戦争戦没者慰霊碑」(昭和33年建立、戦没者36名列記)、砂の本源寺境内「護国英霊之碑」(昭和61年建立、戦没者59名列記)や、榎戸の大宮神社前「平和の礎」(昭和63年建立、戦没者20名列記)が建立されています。また、住野の共同墓地入口には「大東亜戦争戦没者の墓」(昭和28年建立、戦没者43名列記)が建立されています。
 碑文の中には、再び郷土の地を踏むことが叶わなかった人々への偲びや、戦争の惨禍を二度と繰り返さぬ誓い、そして平和への願いなどの様々な思いが込められています。碑に刻み込まれた一言一句からは、当時の人々の想いを感じ取ることができると思います。
 近くを訪れた際には、見学してみてはいかがでしょうか。​


 
からすもり
山田台烏森稲荷神社境内「慰霊碑」

 

昭和時代の八街 3(平成30年11月1日号)​

 戦後の日本では、昭和22(1947)年に地方自治法が制定され、新しい地方制度がスタートしました。この制度は、中学校の設置管理、消防、社会福祉、保健衛生などの事務を市町村の役割としました。このような新しい役割に対応できる市町村を作り上げるために、同28年に「町村合併促進法」が施行され、いわゆる「昭和の大合併」が進められました。
 当時、八街町と川上村は、戦後の経済の窮迫状況を克服し、行政規模の拡大、財政力の強化を図るため、それぞれに「合併促進協議会」を設置(川上村:昭和28年7月17日、八街町:昭和28年8月8日)しました。両町村の合併には、主要産業であった農業の促進や、商工業の発展、土木事業の振興、教育施設の整備、社会福祉事業の拡充を図る目的がありました。
 また、合併後の町名については、八街町には総武本線が通っており、八街駅が交通の要衝であったこと、落花生の集散地としても全国的に有名であったことから、新町名は「八街」をそのまま踏襲することになりました。
 合併後の新庁舎については、旧八街町役場(現千葉興業銀行脇の駐車場)が昭和26年に落成したばかりであり、環境的にも住民の利便性に優れていることから、旧八街町役場を新庁舎としました。
 このようにして、八街町と川上村は昭和29年11月1日に合併し、新八街町が発足しました。その他にも、同年10月31日には山武郡日向村大木山の一部を八街町に編入し、昭和31年4月1日に山武町のうち沖渡・木原の一部を編入し、現在に至ります。


 
やくば
旧八街町役場

 

昭和時代の八街 4(平成30年12月1日号)​

 昭和35(1960)年頃の日本は高度経済成長期にありました。この時期、航空機の需要も急激に伸び始め、羽田空港では滑走路を拡張して発着能力を向上させようと検討しましたが、処理能力は20~30%の増加にとどまるとされました。そこで、政府は昭和37年に新空港建設の検討を開始しました。
 新空港の候補地は、千葉県浦安沖、富里村・八街町、茨城県霞ヶ浦などが挙げられ、調査の結果、昭和40年11月に富里・八街案が内定となりました。富里・八街が内定された理由には、都心までの直線距離が50kmと最も近いことや、戦時中に八街飛行場があったこと、そして土地が平坦で造成しやすいことなどがありました。
 当時の八街では、賛成派と反対派や中立的姿勢をとる人々に分かれて大きな問題となりました。
空港建設に反対した人々には、さまざまな理由がありましたが、建設候補地であった場所は、かつての八街飛行場があり、終戦後の昭和22年に払い下げられ、食糧増産のための農地に転用された土地だったのです。荒蕪地(こうぶち)から良質な農地にするまでには約10年かかるといわれています。終戦からの復興の中で、長い時間をかけてやっと軌道に乗り始めた矢先に、自らが開墾した土地を手放さなければならなくなったため、農家の人たちは反対したのです。
 その後、昭和41年7月4日の閣議決定で、建設候補地が成田市三里塚に決定となり、八街での反対運動は収束していくことになり、三里塚が反対運動の中心となりました。
 新空港建設案がでてから様々な紆余曲折を経て、昭和53年5月20日に成田空港は開港しました。


 
えき
八街駅前に掲げられた賛成派・反対派の横断幕(並木 裕氏撮影)

 

昭和時代の八街 5(平成31年1月1日号)​

 今回は、八街町名誉町民に選ばれた人々について紹介します。
八街町名誉町民条例は「広く社会文化の興隆に功績が卓絶であった者」の功績をたたえ、「町民の社会文化興隆に対する意欲の高揚を図ることを目的」として、昭和42年3月11日に公布・施行しました。
 八街町名誉町民条例の公布と同時に1人目の名誉町民に選ばれたのが西村繁氏です。
 西村氏は、大正・昭和期の日本における農業経営の重要性に着目し、大正10年に欧米諸国におもむき各国の農業教育について視察し、帰国後の同12年に八街農林学校(現:千葉黎明高等学校)を創設しました。
 農業教育のほかにも、学校音楽隊をつくり自ら指揮をとりながら県下の各種行事に奉仕応援をしたり、また、スポーツの奨励にも取り組み、町営総合グラウンド(現:市営中央グラウンド)の建設にあたっては私有地を提供されるなどに尽力されました。
 次に、2人目の名誉町民(昭和48年6月28日)に選ばれたのが池田瀧治氏です。
 池田氏は、旧八街町長を15代・16代と務め、昭和29年の八街町と川上村との合併に尽力し、合併後の八街町長を初代・2代・4代と歴任しました。そして、農業の改善を図り地域住民の農業経営の安定化を求め、畑地のかんがい施設を完備しました。
 また、教育面では戦後の混乱期に、教育の振興と充実を図るため、八街高等学校の設立に尽力しました。
 そして、3人目に名誉町民(昭和51年3月23日)に選ばれたのは、宮田清二郎氏です。宮田氏は、八街町議会議員や千葉県議会議員を歴任し、昭和2年に八街町商工会、昭和28年に社団法人八街商工会議所を設立しました。設立後は八街町商工会長・八街商工会議所会頭を務め、昭和49年まで47年にわたり八街の商工業の向上と発展に貢献しました。
 このように、八街の発展と向上に大きく貢献された3人に、名誉町民の称号が贈られたのです。


 
にしむらしげるし いけだし みやたし
西村 繁 氏 池田 瀧治 氏 宮田 清二郎 氏

 

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