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12.明治時代の八街

印刷用ページを表示する更新日:2023年3月16日更新 <外部リンク>

明治時代の八街 1(平成29年10月1日号)​

 現在、私たちが住んでいる八街市の「八街」という地名は、今から遡ること約150年前、江戸時代の御用馬の放牧地であった下総牧(小金牧・佐倉牧)の開墾事業が開始された時期に命名されました。
 その名付け親は、北島秀朝(きたじまひでとも)という人物でした。北島は、東京府権大参事(ごんのだいさんじ)という東京府の役人であり、明治2年から東京府主導で進められていた下総開墾事業の担当者として任務に携わっていました。
 北島はどのように開墾事業を進めていくかの具体的な計画を組み立てるために、放牧地の原野を実際に訪れ、現地調査を行っていきました。
 当時の東京府知事であった大木喬任(おおきたかとう)へ宛てた調査内容の手紙類の中で、明治2年8月15日付の手紙には「扨又開墾名前明日参館之節持参」(釈文:さて、開墾の名前については明日、参館の際に持参します)とあり、この頃に各開墾地の地名とともに「八街」の地名が名付けられたと推測されます。
 また、現在も北総地域に残る開墾地の地名は、開墾に従事する人々を受け入れていった地域の順番にもとづき、漢数字と好字(こうじ)を組み合わせて付けられていきました。
 開墾地の名前には「富」や「豊」「栄」「美」などの文字が使用され、八街の「街」(ちまた)にも住宅や商店の集まる場所という意味があることから、開墾後に豊かに、賑やかに、栄えていくよう願いが込められていることが分かります。​


 
そうしゅうまき
「総州牧開墾演説書」(東京都公文書館蔵)

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明治時代の八街 2(平成29年11月1日号)​

  明治2年から東京府によって進められた下総開墾事業はどのような背景があり、どのような目的で行われたのでしょうか。
 江戸時代、江戸城下には大名や幕臣(旗本、御家人)、それらの家臣となる武士、そして町人たちが多く住んでいました。徳川幕府の崩壊後、国元へ帰る大名たちがいる一方で、江戸に残された幕臣たちが多くいました。徳川家の領地も大部分が減らされたことから、残された幕臣たちはそれまでの収入の大部分が失われ、深刻な生活苦に見舞われました。一方の町人も多くが武家を相手に商売を行っていたため、稼業を失うなどの「無産」となる人々が多かったのです。明治時代に入って間もない時期の江戸周辺には、そのような「窮民(きゅうみん)」と呼ばれる人々が多く存在していました。
 明治新政府は、「窮民」への対策として下総地域に広大に存在する小金牧と佐倉牧に着目し東京府に開墾事業を命じました。江戸時代には徳川幕府の御用馬生産の牧であった小金・佐倉牧を開墾していく方針を打ち立てたのです。明治2年4月20日に東京府から明治政府へ提出された「下総国牧々開墾大意」には「不毛之地開墾等之業ヲ以広ク窮民ニ生産ヲ与ヘ」(釈文:不毛の地(註-小金牧・佐倉牧)で開墾の業をもって多くの窮民たちに生産を与え)とあります。つまり小金・佐倉牧に「窮民」たちを移住させて開墾事業に従事させ、生産性のある仕事を与えることが目的だったのです。
 下総開墾事業とは多くの「窮民」たちを救済するために立てられた方策であったことがわかります。​


 
こがねまき
小金牧・佐倉牧と開墾地

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明治時代の八街 3(平成29年12月1日号)​

 窮民を救済するための開墾事業が開始され、各開墾地に窮民が移住していく中で、八街にはどのような人々が来たのでしょうか。
 八街に移住してきた人々の詳細が記されている「農舎廿棟竈数録(のうしゃにじっとうかまどすうろく)」(西村家文書)の一人を挙げると、「芝田町弐丁目 藤八店 金次郎 家族四人 肴(さかな)屋」とあり、江戸の芝田町(東京都港区芝浦辺り)で魚屋を営んでいた町人の金次郎が家族四人連れで八街に来たことがわかります。その他の移住してきた人々も、多くが籠細工や八百屋、寿司屋、植木屋など江戸で職人をしていた町人であることが記されています。彼らの住居は「農舎」と呼ばれる六軒棟割の長屋に住み込みながら、開墾事業に従事しました。
 移住してきた人々によって開始された開墾事業は、進めていくにつれてさまざまな困難に直面しました。それは、開墾する土地が江戸時代から全く手の入れられたことのない土地であったことであり、移住してきた人々は農事についたことのない不慣れな人々であったため、土地を切り拓いていくのは容易ではなかったということです。
 その他にも、開墾事業の経過を記録した日記資料には、「風損」という文言がよく見られます。具体的には、開墾が開始されてから間もない明治3年8月と9月に猛烈な台風が襲った例が挙げられます。その台風によって、わずかながらにも開墾した土地や住居である農舎までもが破壊される被害を受けたのです。過酷な作業や自然災害に耐えられず、中には脱走する人々もいました。
 移住してきた人々によって行われた開墾事業は、さまざまな苦難を乗り越えながら進められたのです。​


 
にしむらもんじょ
農舎廿棟竈数録」(西村家文書)​

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明治時代の八街 4(平成30年1月1日号)​

 今回は、八街の開墾事業を先導した人物の一人の西村郡司を紹介します。
西村郡司は、文化11(1814)年に現在の埼玉県さいたま市で生まれ、幼少期から商業で身を立てることを志し、江戸で油商を営む丸屋(西村)三郎兵衛のもとでの奉公を経て、油商・干鰯商・米問屋などを営みました。その後、活動の場を横浜に移し、外国商人との貿易業を営むようになり、郡司は三井家や小野組といった横浜の富商たちで構成された貿易会社「東京商社」に入り、彼らと活動を共にしました。
 郡司が商社で活動する一方で、明治3(1870)年に、政府は江戸幕府崩壊後の窮民たちを救済するための下総開墾事業を展開します。事業推進のために「開墾会社」を設立しましたが、この会社の母体となった組織が「東京商社」だったのです。その開墾会社社員が各開墾地を引き受けることとなり、郡司は、佐倉牧のうちの一つであった柳沢牧(八街市北部)などを引き受け、開墾事業を担いました。
 しかし、窮民によって進められた開墾はうまく進まず、翌4年の時点で郡司が引き受けた柳沢牧での農業が可能となった土地は、全体の約11%にとどまりました。当時、政府から貸与されていた20万両は既に使い果たし、打ち続く災害でさらに20万両が赤字となっていました。郡司たちは、苦境を乗り切るために政府へ7万両の拝借金を要求しますが、政府から出された回答は、貸与金20万両の返還免除と、佐倉牧のうち開墾地として予定していなかった小間子牧の土地の下付というものでした。
 こうして、政府は下総開墾事業から全面撤退することとなり、開墾会社も解散することになります。このような結果を受けながらも、郡司らは自らの私財を出資し続けてその後の開墾事業を進め、小学校の建設や神社の創設など八街の発展に尽力していったのです。​


 
にしむらぐんじ
西村郡司肖像画(西村本家所蔵)

 

明治時代の八街 5(平成30年2月1日)​

 今回は、八街の開墾を先導した2人目の人物、前山清一郎を紹介します。
 前山清一郎は、文政9(1826)年に佐賀県で生まれ、旧佐賀藩の藩校弘道館や江戸の昌平坂学問所で学問を積み、戊辰戦争の際には大総督府応援参謀として活躍しました。その後、佐賀藩大参事や兵部省(ひょうぶしょう)の出仕として官職も務め、明治7(1874)年に起きた佐賀の乱でも、政府軍の勝利に貢献し、のちに元佐賀藩主の鍋島家が八街南部の小間子牧の土地を買い入れたことを機に、前山も現在の山田台に居を構え、鍋島家による小間子牧の開墾事業に携わりました。
 清一郎は、開墾事業を開始するにあたって開墾事務所「永沢社」(えいたくしゃ)を設立し、旧佐賀藩士など人材の受け入れや、作物の試作、植林などに精力的に活動しました。
 その他にも、教育普及として明治10年に大塚小学校(現:二州小学校)の建設や、同12年には第百四十三国立銀行を設立するなど、地域の発展に大きく貢献したのです。
 また、清一郎は小間子牧の開墾に臨むにあたり、次のような漢詩を詠んでいます。
『辞官隠北総』前山懶圃
 「再着戦袍酬聖明 草莱深處托餘生 一蓑春雨墾開業 留與児孫守大平」。
 意味は次のようになります。
『官職を辞めて北総に隠居する(題名)』前山懶圃(清一郎の号)
 「再び陣羽織を着て天皇に報いよう、残された命をこの荒れ果てた草深き所に預け、一つの蓑(みの)と春雨をたよりに開墾を開業し、子孫達のために平和を守ろう」
 この漢詩からは、八街南部の将来を見据えた想いと強い決意を読み取ることができます。​​
 清一郎は明治10年前後に八街に来たと考えられ、明治29年に70歳でその生涯を閉じるまでの約20年という歳月を八街南部の発展の為に尽くしました。


 
まえやま かんし
前山清一郎肖像画(前山家 所蔵) 前山清一郎漢詩(佐賀県立図書館 所蔵)

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さっし

明治時代の八街 6(平成30年3月1日号)​

 今回は、八街開墾の中で富山地区の開墾に関わった倉次享(くらなみとおる)を紹介します。
 倉次亨は、文政12(1829)年、佐倉藩士の家に生まれました。幼少期から武芸に励み、幕末期には、尊皇攘夷を唱えていた水戸天狗党が決起した際、この討伐に動いていた佐倉藩の総指揮官として活躍しました。
 明治に入ると、職を失った旧佐倉藩士に仕事を与え、救済するための会社設立を計画していた旧佐倉藩士の西村茂樹(にしむらしげき)の考えに亨も賛同します。亨は製茶事業に力を入れ、明治4(1871)年10月に、製茶会社「佐倉同協社」を現在の富山地区に設立しました。社名は「みんなで同じ心を持ち、力を合わせる」といった「同心協力」が由来となっています。茶栽培を取り上げた理由は、江戸時代から佐倉藩で茶の栽培を行っていたという経験や、八街を含む印旛沼周辺では湿気や霧の出やすいといった、茶の生育に適した自然的な条件が整っていたためといわれています。
 初めての茶摘みは同8年に行われ、その時には約169キロの茶葉が生産されました。翌9年には、ニューヨークに輸出するなど海外にも「佐倉茶」の名は知られるようになり、以後の生産量も増え続け、最盛期には1200tの生産量をあげるようになりました。同19年には、亨の製茶事業の実績が高く評価され、教育・衛生・殖産・開発などの事業に大きく貢献し、人々のために尽くした人に与えられる藍綬褒章を受章しています。


 
くらなみ
倉次 亨(倉次家 所蔵)

 

明治時代の八街 7(平成30年4月1日号)​

  明治5(1872)年の学制発布によって全国的に教育普及の機運が高まりますが、八街には江戸時代から教育普及に努めていた斎藤庄右衛門(しようえもん)という人物がいました。
 庄右衛門は、文政10(1827)年に用草地区で生まれ、その後、自宅の前に小さな寺子屋を開設しました。最初は、佐倉藩士を雇って指導させましたが、嘉永期の初め(1848)頃には自ら直接指導していました。
 指導には、衣食住、職業、司法、仏経、武具、療養などの一般教養を身につけるための『今川庭訓』や、礼節や道徳といった儒学を学ぶための『四書五経』などの教科書を扱い、素読を行っていました。
 寺子屋に入る子ども達は9才前後で入門し、15、16才で卒業していました。また、授業料は五節句(1月7日、3月3日、5月5日、7月7日、9月9日)ごとに米2升としており、その他にも寒暑見舞として銭200文や豆腐2丁が納入されていました。
 明治に入り学制が発布されると、庄右衛門は明治6年2月にそれまでの寺子屋から用草地区の真福寺に移して用草小学校を開設しました。用草小学校は、明治21年に移転し、大谷流尋常小学校と改称し、昭和22(1947)年に川上小学校となります。
 明治29(1896)年4月には、庄右衛門の功績をたたえた頌徳碑「斎藤考谷翁寿蔵碑」が教え子たちによって建てられました。そこには、庄右衛門が周辺43ヵ村の連合戸長の職に就いた時も寺子屋の運営を辞めなかったことや、休日にも暇を惜しんで子どもたちに教育を行っていたことが記されています。
 頌徳碑が建てられてから4年後の明治33年に庄右衛門は73年の生涯を閉じますが、その生涯を地域の子どもたちの教育のために尽くしていたのです。


 
さいとう
斎藤考谷翁寿蔵碑

 

明治時代の八街 8(平成30年5月1日号)​

 明治5(1872)年に日本最初の鉄道が敷設(新橋-横浜間)されたことを契機に、全国的に鉄道事業の機運は高まり、各地で鉄道建設が進んでいきました。
 千葉県では、明治20(1887)年に佐原の伊能権之丞が「武総鉄道会社」、成東の安井理民が「総州鉄道会社」の創立を政府へ申請します。
 しかし、当時の千葉県では利根川や運河などの水上輸送が発達していたため、申請は却下されました。その後、同22年に伊能と安井は2社を統合した「総武鉄道」を設立し、水運とは競合しない陸軍施設に有利なルートを選択したことで免許を得ることができ、ここに、千葉県最初の鉄道会社が誕生しました。
 着工は、明治26(1893)年に始められ、同27年7月に市川-佐倉間が最初に開通し、12月に本所(現在の錦糸町)-市川間が開通しました。その後、佐倉から銚子までの延伸が計画され、同30年6月に本所-銚子間の全線が開通することになりました。
 鉄道の敷設は、旅客・物資輸送の飛躍的な進歩のみならず、様々な産業・経済の発展をもたらしました。八街周辺の開墾地では、物資輸送が容易化したことで化学肥料が移入され始め、農業生産量が著しく増加しました。生産された農作物は八街駅に集積され、県内外の消費地へと輸送されました。その他にも、移住による人口の増加やそれに伴ってできた料理屋・飲食店などの商業施設の増加など、地域経済をめざましく活気づけたのです。
 その後、「総武鉄道」は明治40(1907)年に国有化され「総武本線」と改称されました。


 
きしゃ
大正時代の総武本線汽車(八街駅付近)

 

明治時代の八街 9(平成30年6月1日号)​

 八街市には「榎戸新田橋りょう」という明治時代に造られた歴史的建造物があります。この橋りょうは、明治30(1897)年5月1日に「総武鉄道」(現:総武本線)の佐倉-成東間が開通した際に、河川をまたぐために造られた煉瓦造りのアーチ橋です。竣工は同年12月とされ、全長7.3m、全幅19m、全高5.05mとなっています。
 アーチ環の上部は焼過煉瓦で四重の半円形になっており、腰部分は赤煉瓦を使用し、長手煉瓦の段と小口煉瓦の段を一段おきに積むイギリス積みで構築されています。
 また、榎戸新田橋りょうから佐倉駅方向に約3km向かった場所には、同様の煉瓦造りの「上勝田アーチ橋」が位置しており、この2つの煉瓦アーチ橋とともに千葉県における最初期の煉瓦造アーチ橋といわれています。
 榎戸新田橋りょうは竣工から120年以上経過していますが、記録に残る補修履歴や大きな損傷もなく現在も良い保存状態を保っています。
 平成28年11月には、八街郷土史研究会の働きかけにより、公益財団法人土木学会選奨の土木遺産に認定されました。榎戸新田橋りょうの近くには榎戸第3児童公園が隣接しており、公園や近くのむつき橋から橋りょうを望むことができます。
 八街市の歴史遺産をぜひ見学してみてください。


 
はし えのきどちず
榎戸新田橋りょう 榎戸新田橋りょう地図

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明治時代の八街 10(平成30年7月1日号)​

 八街の代表的な特産物である落花生の歴史は、明治のはじめにさかのぼります。
 千葉県に初めて落花生が入ってきたとされるのは、明治9(1876)年に山武郡南郷村(現:山武市)の牧野萬右衛門が神奈川県で種子を入手し、自分の畑で栽培したことが最初のきっかけです。翌10年には、千葉県令柴原和が落花生栽培を奨励したことで、県内での落花生栽培が広がり始めます。11年には、鎌数村(現:旭市)の金谷惣蔵や中和村(同市)の石丸複次郎が普及に向けての奨励活動を行い、落花生産業の発展に尽くしました。
 八街での落花生栽培は、明治29年頃に文違・住野地区で栽培され始めたといわれています。落花生の栽培には、水はけの良い砂質土壌が最適とされ、八街も同様の土壌であったことから、明治末期頃から急速に落花生栽培が発展し、大正初期には県内有数の特産地となりました。
 昭和に入ると、戦時中に一時、作付け統制により落花生栽培は抑制されますが、昭和22年には落花生の作付面積が全耕作面積の約80%を占め、全国一の生産量を誇るようになり、「八街の落花生」は全国に知れ渡るようになりました。

 
ぼっち ぼっち
落花生の模型(郷土資料館展示品) 落花生ぼっち

 

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