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7.鎌倉時代の八街
鎌倉時代の八街 1(平成28年5月1日号)
鎌倉時代の八街の状況は、遺跡の発掘成果や古文書などがないため、あまりわかっていないのが現状です。平安時代中頃まで八街の河川に面した台地上に住んでいた人々は、河川に面した低地に生活の場を移していき、現在の古村と呼ばれる地域の集落の基になったと考えられています。
平安時代末期の京都醍醐寺の古文書には、印旛郡のうち高崎川周辺地域である酒々井町岩橋・尾上・新橋・中沢周辺に「印東荘」(いんとうのしょう)と呼ばれる荘園(貴族や寺社の私有地)があったことが記されており、その範囲は八街市の文違まで及んでいたと考えられています。
また、鎌倉時代に編さんされた『吾妻鑑(あずまかがみ)』には、「下総国〈延暦寺(えんりゃくじ)〉白井荘(しらいのしょう)」と記され、印旛郡の鹿島川中流地域である佐倉市内田・七曲・八街市根古谷・岡田・用草・勢田周辺に白井荘と呼ばれる延暦寺の荘園があったと考えられています。また、一説には、千葉市北谷津・高根・多部田・佐和・川井・五十土・野呂・和泉まで広がっていたと考える説もあります。
八街周辺の荘園 |
鎌倉時代の八街 2(平成28年6月1日号)
八街には、鎌倉時代の言い伝えとして、「白馬の呪い」伝説があります。
今から約770年前の鎌倉時代中頃に、岡田の里に一頭の馬が現れ、深い泥田に足を取られ動けなくなり、死んでしまいました。岡田の人々は、この馬は神様のお遣(つか)いの白馬と信じ、手厚く葬りました。
しかし、それ以来、岡田の里にはたたりが続き、流行病(はやりやまい)で一家が全滅したり、この近くを馬に乗って通ると落馬して怪我をしたりしました。それだけでなく、毎夜気味の悪い風が吹き、鬼火が燃えたため、村人は「白馬の呪い」と恐れました。
お坊さんにお経を読んでもらったり観音様の像を刻んで白馬の倒れた場所に祀(まつ)ったりしましたが、たたりはいっこうに衰えません。
それから10年余り過ぎた頃、日蓮聖人がこの地を通りかかり、村の様子があまりにもおかしいので村人に尋ねると、「白馬の呪い」という答えが返ってきました。そこで、聖人は白馬の倒れた場所に観音像を据え、お経を読み一身に祈りました。すると、その後、嘘のように流行病も下火となり、岡田の里は再び活気に満ちあふれました。
その約230年後に、法宣寺住職日税(にちぜい)がお堂を建てて観音像を安置して、岡田の馬頭観世音堂が創建されました。
白馬の呪い |
郷土資料館刊行:『図解 八街の歴史』
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