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「佩犢園(はいとくえん) 下村充邸宅之図」銅版画の原板公開
印刷用ページを表示する更新日:2024年9月27日更新
令和5年度に修復保存処理を施した、銅版画の原板「佩犢園(はいとくえん) 下村充邸宅之図」を郷土資料館で展示しています。
この銅版は、明治21年から明治30年の10年間にわたって12編刊行された『日本博覧図』に掲載された銅版画の原板になります。『日本博覧図』は、明治半ばの関東を中心とした地域の名勝旧跡、寺社、豪農豪商の邸宅、庭園、会社、工場、学校などを掲載したもので、千葉県は主に9編と12編に掲載されています。20編にも千葉県の部としていくつか掲載されており「佩犢園(下村充邸宅之図)」は20編に掲載されています。
下村充は、佐賀藩(鍋島家)による小間子(おまご)牧の開墾に際し、佐賀から移住して開墾事業に尽力した人物で、のちに八街村長(第17代)も務めました。
小間子牧の開墾事業では、山田台地区に開墾会社「永沢社(えいたくしゃ)」を設け、沖地区と滝台地区に支所を設けて進めていきました。下村は滝台支所の主任を務め、自宅が滝台支所となっていました。
下村は、開墾事業なかで養蚕業を有益な一大産業とするため、養蚕飼育方法の技術力向上を目指して明治21年4月~6月までの3ヶ月間、福島県の「西ヶ原養蚕試験場」研修に赴きました。この背景には、入植した開墾人たちの収益を向上させ、生計を安定させる目的がありました。
銅板に描かれた邸宅には、「養蚕場(ようさんじょう)」や「貯桑場(ちょそうば)」「桑扱場(くわこきば)」などが設けられており、滝台地区の一大養蚕場であったことをうかがうことができます。
ぜひご来館の上、細かな彫金を見ていただけたら幸いです。
※「佩犢」=「武事をやめて農業に従事する」という意味。(下村邸の門に「佩犢園」の看板を掲げていたこともうかがえます。)
※貸出のため、令和6年11月1日からは展示しておりませんのでご了承ください。
この銅版は、明治21年から明治30年の10年間にわたって12編刊行された『日本博覧図』に掲載された銅版画の原板になります。『日本博覧図』は、明治半ばの関東を中心とした地域の名勝旧跡、寺社、豪農豪商の邸宅、庭園、会社、工場、学校などを掲載したもので、千葉県は主に9編と12編に掲載されています。20編にも千葉県の部としていくつか掲載されており「佩犢園(下村充邸宅之図)」は20編に掲載されています。
下村充は、佐賀藩(鍋島家)による小間子(おまご)牧の開墾に際し、佐賀から移住して開墾事業に尽力した人物で、のちに八街村長(第17代)も務めました。
小間子牧の開墾事業では、山田台地区に開墾会社「永沢社(えいたくしゃ)」を設け、沖地区と滝台地区に支所を設けて進めていきました。下村は滝台支所の主任を務め、自宅が滝台支所となっていました。
下村は、開墾事業なかで養蚕業を有益な一大産業とするため、養蚕飼育方法の技術力向上を目指して明治21年4月~6月までの3ヶ月間、福島県の「西ヶ原養蚕試験場」研修に赴きました。この背景には、入植した開墾人たちの収益を向上させ、生計を安定させる目的がありました。
銅板に描かれた邸宅には、「養蚕場(ようさんじょう)」や「貯桑場(ちょそうば)」「桑扱場(くわこきば)」などが設けられており、滝台地区の一大養蚕場であったことをうかがうことができます。
ぜひご来館の上、細かな彫金を見ていただけたら幸いです。
※「佩犢」=「武事をやめて農業に従事する」という意味。(下村邸の門に「佩犢園」の看板を掲げていたこともうかがえます。)
※貸出のため、令和6年11月1日からは展示しておりませんのでご了承ください。
展示の様子
保存処理作業
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