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八街市の指定文化財

印刷用ページを表示する更新日:2024年2月1日更新 <外部リンク>

御成街道跡(ちば文化資産「東金御成街道」)

 
御成街道経路

 御成街道は慶長18(1613)年12月に、徳川家康が東金地域で鷹狩を行うために佐倉城主であった土井利勝に命じて造成させた、船橋~東金間およそ37kmを結んだ街道です。元来、この街道は「東金新海道」の名が付けられましたが、家康・秀忠・家光(大納言時代)らが利用したことから「御成道」と呼ばれるようになり、次第に「御成街道」の名が定着したといわれています。

 造成には八街市域の古村を含めた近隣97(96とも)ヶ村から人足が集められ、八街市域に所在した用草村(現:用草区)、塩古村(現:岡田・根古谷区及び佐倉市西御門・七曲)、谷流村(現:大谷流・小谷流区)、砂村(現:砂・上砂区)、吉田村(現:東吉田区)、勢田村(現:勢田区)の人々も動員された記録が残されています。

 街道造成にあたって、船橋・東金間をほぼ真っ直ぐに結ぶ指標とするため、およそ4.7km毎に一里塚を設け、昼には白旗、夜には提灯を掲げ、昼夜問わずの工事により短期間で完成させた(所説あり)といわれ、「一夜街道」や「提灯街道」の別名も残されています。また、始点となった船橋宿と御狩場であった東金には宿泊所となる「御殿」が、そして中間地点には休憩所となる「御茶屋」も築かれました。

指定範囲

 街道造成の命を出した翌月、慶長19年1月に家康が東金で鷹狩りを行って以降、秀忠の時代には元和3(1617)年から毎年のように東金で鷹狩が行われましたが、家光が将軍になると鷹狩は江戸近郊に限定され、東金へ御成りになることもなくなりました。

 東金周辺域はその後も、幕府の鳥見役・鷹匠らによる御狩場等(鷹場)としての管理は継続され、五代将軍綱吉の代に入ると、一時的に中断されたものの、幕末まで鷹場として運用されました。

 鷹場近隣の村々は鷹狩の際の賄・人足・宿の供給等が求められました。これらの普請に対応するため、村々の互助を目的に「鷹場組合」が組織され、村の石高等に合わせて負担を割り当てました。また、街道沿線の村では街道の清掃や並木の管理などの日常的管理にも従事するなど、市域の村々は江戸時代を通じて鷹場や御成街道の運用に携わったといいます。

 船橋~東金間およそ37kmを結んだ御成街道も、明治時代以降の農地造成や道路舗装等により、現在ではそのほとんどが改変を受けている中、八街市内に所在し、当時の姿を留めている史跡3箇所を「御成街道跡」「御成街道跡(風景谷の険)」「御成街道の一里塚」として八街市指定文化財に指定しています。


市指定史跡「御成街道跡」

 
御成街道跡
平成15年指定  員数:1条(1,669.08平方m 距離約110m 幅約15m)
 所在地は千葉・八街市境を通過し、300mほど東に進んだ山林の中、江戸時代に幕府直轄の馬牧として営まれた小間子牧内にあたり、台地を浸食する小さな谷津を跨ぐよう造成された箇所にあたります。
 指定箇所は、街道の傾斜を緩和するために台地の肩口を削る「切通し」2箇所と、その間をつなぐために築かれた「土橋」により構成されています。
 平成15年に実施した学術発掘調査により、断面がV字状となる切通しの中央部には、人の往来により踏みしめられ硬化した道路使用面が残されていたほか、その脇には排水を考慮したとみられる側溝も検出され、江戸時代に造成・使用された姿のまま残されていることが確認されました。

 


市指定史跡「御成街道跡(風景谷(ふがさく)の険)」

 
風景谷の険 写真

令和5年指定(附) 員数:1条(1,500平方m 距離約82m 幅約20m(盛土・小区画整形遺構含む))

 御成街道は地形を考慮せずに、ほぼまっすぐに造成されたため、14箇所もの谷津を経由していたといわれています。中でも深い谷を跨ぐ、勾配の険しい場所については「険」の名が付けられ、八街市と千葉市の境となるこの区間は「風景谷(ふがさく)の険」の名前で呼ばれていました。家康が駕籠から馬に乗り換えて、登り切ったところで眼下の風景に感嘆したことから、この名が起こったとされています。

 「風景谷の険」は、令和元年度から4年度にかけて実施した学術発掘調査の結果、台地の法面をS字状に造成した「切通し」の中心には江戸時代当時の道路面が確認されたほか、北側には幅2m程の扇状の平場(小区画整形遺構)を、南側には盛土を形成するなど、道以外の付帯施設も確認されました。

風景谷の険 コンタ図

※アジア航測(株)の赤色立体地図を基に加工の上、作成


市指定史跡「御成街道の一里塚」

 
一里塚

平成20年指定 員数:1基(95平方m 直径約8m 高さ約2.5m)

 御成街道の沿線、上砂付近に所在している一里塚です。御成街道の一里塚は街道造成の際に道を直線に結ぶ目印として築かれ、昼には白旗、夜には提灯が掲げられたといわれています。御成街道には8箇所の一里塚が所在していたとされ、今でも千葉市千城台東、同富田町、八街市上砂の一里塚の3基が現存しています。

 上砂の一里塚は、近年まで上砂のくぬぎ山付近に所在するという伝承と文献だけは残されていましたが、昭和60年に実施された御成街道の発掘調査によって所在が確認されました。

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