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文化財の意味を知り、先人の残した遺産を受け継ぐまち

住野神社
 明治の始めごろ、埼玉県大宮市の氷川神社の分霊を招いた八街神社から分霊して創建されました。須佐之男命・稲田姫命・大己貴命を祭神とし、祭礼は、八街神社と同日に行われます。境内には昭和43(1968)年3月に建てられた「八街開墾百年記念碑」があります。
子の神神社
 宝永4(1707)年の大地震と富士山の噴火によって農作物の被害や疫病が流行したため、疫病退散、五穀豊穣を願って獅子舞を奉納したと伝えられていますので、創建は宝永年間以前と考えられます。以来160年余り続いた獅子舞は、明治の始めごろに神社の崖下にあった浄星院という寺が焼けたときと同じころに廃止されたといわれています。祭神は大国主命で、祭礼は旧暦の9月18日であったものを昭和35(1960)年から八街神社と同日に行っています。
雁丸大宮神社
 延宝2(1674)年の創建と伝えられています。本殿の彫刻は美しく、社域には天神社・道祖神が併祀されており、参道の長い石段は35段を数えます。祭神は大宮能売命で、祭礼は9月15日でしたが、戦後、八街神社と同日に行っています。
新蔵寺
 妙立山新蔵寺は、寛永年間(1624〜1644年)、佐倉藩主土井利勝が榎戸新田村を開発したときに、日蔵上人を招聘して創建されたと伝えられています。本堂には利勝の位牌と天正年間(1573〜1592年)の作といわれる日蓮上人の木像が安置されています。利勝の命日にあたる7月10日には「土井様ひまち」と称して供養が続けられています。山門は四脚門で、梁間の彫刻から見て創建当時のものと考えられます。
大宮神社
 創建は寛文元(1661)年と伝えられ、大己貴命を祀っています。堂内には長さ3m近い太い木太刀が保管されていますが、これは、地方巡歴中の香取郡山倉神社の徒輩から手に入れたものと伝えられています。また、起源は定かではありませんが、社内に奉納される獅子舞は、疫病が流行した際に、村内を一戸一戸巡回して疫病退散を願ったと伝えられています。この獅子舞は、昭和54(1979)年に市の無形民俗文化財に指定されましたが、後継者不足のため、現在は行われていません。社殿西側には寛政3(1791)年に造立された五穀の祖神を祀る社日塔(五角柱の石塔)があります。
北向きの道祖神
願をかけるとき、祠の小石を一つ借りて帰り、願いがかなったら、その石を倍にして返す習わしになっていると伝えられています。北に向いているということで、少しつむじ曲がりの神様で、願をかけたら満願の日まで参詣する姿を他の人に見られてはいけないとのことです。かつては、かわらめきの河原で身を清めてから参詣していたそうです。
陸軍飛行場跡
 昭和14(1939)年から用地買収が始まった陸軍飛行場は、昭和16(1941)年4月に開設され、昭和20(1945)年の終戦まで使用されていました。旧飛行場の管理部や格納庫などの中枢部は松里地区に存在し、富里へ向かう直線道路は滑走路の名残といわれ、現在でも松里地区に当時の舗装が残っているところがあります。昭和60(1985)年には梅里地区に「陸軍飛行場偵察隊の碑」が造立されました。
本昌寺
 経王山本昌寺は、松戸市平賀本土寺の孫寺で、親寺は佐倉市上勝田の妙勝寺にあたります。慶安元(1648)年の「大関新田村水帳」に寺有水田の記載があることからそれ以前の創建と思われます。開山は一乗院日受上人で、宗派は日蓮宗です。
貴船神社
 文政13(1830)年の創建と伝えられています。祭神は闇 神で、降雨止雨をつかさどる神です。神社には、次のような由緒があります。
 石屋の男が外山(富山)の池で大蛇を見ました。その夜、一人の神女が男の枕元に立って、「池のほとりに貴船の神を祀ってほしい。そうすれば男の夢をかなえてあげよう」と言いました。翌朝、男は足腰の立たない父の回復を祈ると、たちまち回復したということです。石屋は大蛇の恩に報いようと石像を刻み、上勝田・榎戸・大関村の協力により社殿を創建したということです。昭和55(1980)年の神社改修の際に、ご神体の底部に記された願主とその家族5人の名前と文政12(1829)年正月9日の日付が確認されています。
軽便鉄道跡
 大正2(1913)年9月、八街地区を中心として陸軍鉄道連隊の軽便鉄道による大演習が行われました。このとき敷設された線路は四街道に端を発し、根古谷区・沖区・山田台区・滝台区・四木区・六区・大東区・二区・朝日区を経て三里塚方面に達していました。
 演習終了後、朝日区以南を撤去、朝日区から八街駅にいたる線路を新設して大正3(1914)年5月から県営軽便鉄道八街三里塚線に生まれ変わりました。以後、昭和14(1939)年に廃止されるまで、客車2、3両(1両の定員は7、8人)を連結した小型の軽便機関車が、一日4往復走っていました。
八街神社
 明治5(1872)年5月、武蔵国足立郡高鼻村官幣大社氷川神社の分霊を招き、氷川台に社殿を造営して「氷川様」と称していました。明治6(1873)年11月23日、官許を得て八街神社となり、明治13(1880)年11月2日、八街村の実住・東実住・住野・西林・夕日丘・真井原・小間子の鎮守として改めて祭儀を執行しました。明治27(1894)年、現在地に社殿が完成し遷宮しています。祭神は大己貴命・須佐之男命・稲田姫命です。社域には小出古城氏の調査研究による柳沢牧・小間子牧の記録が刻まれた「八街元名小間子柳沢両牧記録碑」があります。祭礼は11月2・3日で、市内7地区から屋台や山車が繰り出し、3日には市役所駐車場でお囃子や踊りの競演が行われています。
十間道路の大構想
 明治の始めごろ、八街を開墾する際に、三区から五区にかけて八街の中心道路として、道幅十間(約18m)の道路を作る計画がありました。実際には実現しませんでしたが、実住小学校の校庭の太いけやきと、その向かいにある忠魂碑敷地内のけやきがその道幅の目安として植えられたものといわれています。
経塚
 佐倉市岩富と接する、西林区の県道の北側にある、こんもりとした山のように見えるのが経塚です。言い伝えによれば、真言宗から日蓮宗に改宗した寺が、従来の真言宗の経巻や什物を埋めたものだといわれています。終戦後、開墾の話が出ましたが、後難を恐れて原形のまま保存されています。
真井原氷川神社
 明治10(1877)年ごろの創建と考えられています。祭神は大己貴命・須佐之男命・稲田姫命で、社域には二十三夜塔などの石造物や、子安神社の祠中には、鬼子母神の石造物が安置されています。
松林氷川神社
 明治の始めごろの創建で、昭和38(1963)年12月、社殿の一部を改築し、中央公民館松林分館(現:松林公民館)を併設しました。祭神は、大己貴命・須佐之男命・稲田姫命で、境内には妙見宮・子安神社が併祀されており、子安神社の祠中には鬼子母神の石造物が安置されています。

八街市指定文化財(1)

有形文化財(歴史資料)
・捕馬の図
有形文化財(歴史資料)
・宝永元年勢田村用草村
 地境争論裁許書
有形文化財(古文書)
・天正検地帳
有形文化財(建造物)
・馬頭観世音菩薩像
民俗文化財(有形)
・額絵馬(鹿狩の図)
民俗文化財(有形)
・岡田馬頭観世音幟
有形文化財(歴史資料)
・捕馬の図下絵
有形文化財(歴史資料)
・永沢社鬼瓦
民俗文化財(有形)
・額絵馬(捕馬の図)

文化財の意味を知り、先人の残した遺産を受け継ぐまち

十文字海道
 ここは、佐倉から長熊・勝田・大関新田を経て東金にいたる南北道と、千葉・岩富・木原にいたる東西道の交差点で、十文字往来ともいわれていました。天保9(1838)年の記録によれば、この道路は大道で道幅は9尺(約3m)ということで、当時としてはきわめて重要な道路であったと思われます。東吉田村には幕末まで伝馬所(馬の乗り継ぎ場)が置かれていたということからも、その重要度が推察されます。
薬師権現社
 慶長12(1607)年の創建と伝えられています。入口には道祖神2基と文化年間(1804〜1818年)に建設され、その後、神仏分離令により取り壊された鳥居の一部が今でも残っています。社殿は平成7(1995)年、火災により焼失しましたが、手洗石や疱瘡神の石造物があり、樹齢400年を超えるといわれる老木が社域の神秘さを増しています。
皇産霊神社
 寛文2(1662)年に社殿を改築したとの記録が残っていることから、それ以前の創建であると思われます。以前は「自在天堂」と呼ばれ、郷中地区にあったものを、村民が担いで現在地に遷したといわれています。その建物は今でも残っており、鳥居をくぐった左側に鎮座しています。祭神は皇産霊神で、拝殿前には、地元の赤地家が奉納した祭神の使い象と、使い鷹の石造物があります。また、社域には三峰社が併祀されています。
吉蔵寺
 小谷流永福寺の末寺で寛永13(1636)年に創建されたといわれています。江戸時代の終わりごろから明治時代の始めごろに住職の斉藤観山がここで寺子屋を開設し、明治8(1875)年に吉倉小学校を開校しました。斉藤観山の没後、無住寺となり、現在は最成寺(東吉田区)の管理となっています。境内には江戸時代初期の武士であり、宗教家、倫理思想家でもある鈴木正三の「塔隣禅庵」銘の記された無縫塔があります。
斉藤考谷翁寿蔵碑
 斉藤考谷翁(本名は荘右衛門)は、文政10(1827)年に用草に生まれ、嘉永年間(1848〜1854年)に自宅に私塾を開きました。明治6(1873)年に真福寺に用草小学校が開設されるまで、塾生300人が学び、その範囲は川上地区だけでなく、木原・大木からも集まったといわれています。同氏は、明治の始めごろに連合戸長などの要職も務めていました。この碑は、明治29(1896)年4月に教え子である「筆子中」が立てた石碑です。
馬頭観世音堂
 縁起によれば、鎌倉時代建長年間(1249〜1256年)の始め、一頭の白馬が岡田の地で倒れてから、さまざまな災厄が降りかかり、「白馬ののろい」と恐れられていました。文永元(1264)年に日蓮上人がこの地を通りかかり、白馬が倒れた場所に観音像を据えて、題目を唱え回向したところ、たたりがおさまったということです。その後、法宣寺二世日税上人のとき、現在の位置にお堂を建て、観音像を安置しています。拝殿には猪野秀司作と伝えられる市指定文化財の「額絵馬(捕馬の図)」が奉納されています。
法宣寺
 室町時代の長禄元(1457)年、日意上人によって開基されました。縁起によれば、平賀本土寺の日意上人が教えを説くために塩古地区にきた際、以前から病気療養中の根古谷城主の息子の難病を、7日間の祈祷と本土寺の妙符により治療し、完治させたため、城主はおおいに感激し、城の北部にお堂を建て、日蓮上人の「生御影」を安置して法宣寺を創建したと言われています。根古谷城跡から法宣寺の方向をみると、その山々が仰向けに横たわるお釈迦さまの形に見えることから、「寝釈迦様」といわれています。
大谷流の貝層
 大谷流地区周辺の崖を観察すると、貝化石の詰まった「木下貝層」と呼ばれる地層が見られます。分析の結果、エゾタマキガイを中心とする貝類59種とカシパンウニなどの海洋生物4種類が確認されています。これらは、今から約13万年前の「下末吉海進」と呼ばれる海の浸食によって流されて堆積したもので、当時の八街が海の底であったことを物語る貴重な証拠です。
永福寺
 市内で最古の寺院です。貞和5(1349)年銘の鰐口があることから、それ以前に創建されたといわれています。当初は真言宗で、当時の地名である「住蒼郷」をとって住蒼山長寿寺と称していましたが、いわゆる「七里法華の改宗」(土気城主酒井定隆の命により七里四方の領内の寺院をすべて日蓮宗派に統一)により文明5(1473)年顕本法華宗に改宗し、法流山永福寺となったといわれています。
日枝神社
 天正19(1591)年5月19日創建で、祭神は大己貴命です。かつては山王大権現と称していましたが、明治4(1871)年から現在の名称に改められています。社域には鳥居の左手から日枝神社へ続く坂道があり、傾斜地に沿って左手に水神・三峰・子安・天神、右手に山神、日枝神社からさらに上に登ると浅間の各社が祀られています。また、桜の花が咲くころには、市の天然記念物に指定されているカタクリの花が可憐に咲きます。
一里塚
 御成街道は、慶長18(1613)年に徳川家康が佐倉城主土井利勝に命じて作らせた道路で、船橋、東金間の約37kmを、ほぼ一直線に結んでいました。今ではほとんどの部分が、舗装されていますが、沖区には、当時のままの姿で残されている場所があります。この一里塚は、御成街道の距離の目安となる塚で、約4.7kmに一つの間隔で作られています。
小間子馬神社
 正しくは「小間子馬神社太郎防分霊」といいます。明治26(1893)年4月3日、馬の保護と地域住民の安泰の願いを込めて、滋賀県大津市の馬神社を分霊して創建されました。祭神は素戔鳴命・少彦名神・祓戸四柱神で、社域には子安大明神も併祀されています。また、若者の力試しに使われたという力石が三つ(うち一つは郷土史料館に寄贈)奉納されています。
明治天皇御野立所
 県道の少年院入口から5mほど入った高台に、明治天皇御野立所の記念碑が建立されています。明治15(1882)年5月2日、この地で近衛兵の大演習が繰り広げられ、明治天皇がこの高台から演習を視察されました。昭和10(1935)年3月に国指定史跡となりましたが、戦後、解除されています。
烏森稲荷神社
 明治10(1877)年の西南の役に、元鍋島藩士、前山清一郎の長男元次郎が海軍陸戦隊として参戦をしていたとき、谷川で水を飲もうとしたところを銃撃されましたが、危うく難を逃れました。このとき、前山家の池に白狐が落ちて、溺れ死んでいたのを見た清一郎は、この白狐こそわが子の身代わりと信じ、その霊に報いるために白狐の墓の傍らに祠を建て、明治11(1878)年3月に鍋島藩の産土神である、東京の烏森稲荷を分霊勧請して、創建されました。祭神は倉稲魂命で、社域には子安大明神が併祠され、戦没者の慰霊碑もあります。
南部地区防風保安林
〈沖区・山田台区・滝台区・四木区〉
 市内の南部地区に所在した小間子牧の開墾は、明治7(1874)年に鍋島家の所有となり、本格的に開始されました。鍋島家は永沢社を設立して、旧藩士や地域住民の協力のもと、防風対策として植林をすすめ、宅地付近には竹を、畑には茶を植え、作物には篠笹などで防護させ、農業の向上発展に努めていました(鍋島開墾といわれています)。戦後、地域住民が県営自作農創設開発事業を興し、10年の歳月をかけて耕地整理を行ったときに、一定の間隔で松や杉を植林して、防風保安林を設置しました。千葉県全体の約7割にあたる防風保安林が市内に所在することは特筆されます。

八街市指定文化財(2)

民俗文化財(無形)
・八街市根古谷塩古ざる
民俗文化財(無形)
・八街市榎戸獅子舞
民俗文化財(無形)
・八街市文違麦つき踊
記念物(史跡)
・柳沢牧野馬土手
記念物(天然記念物)
・根古谷の涌水
記念物(天然記念物)
・カタクリ群生地
記念物(史跡)
・御成街道跡

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